いのちを見つめる自然

東日本大震災後から「復興、復興」という言葉がマスコミを通して叫ばれる。また選挙も終わったのにまだ「日本を取り戻そう」という政党のポスターが街のあちこちで見受けられる。何を復興するのだろうか?何を取り戻そうというのだろうか。震災の方は取り戻しができるだろうけれど、原発事故の方は決して取り戻すことなど、できない。それどころか、原子力のごみをずっとのちの世代まで残していくのだ。


ずいぶん前になるが、アウシュヴィッツを訪れた時、人間がガス室を始め、科学技術を悪用すれば、どんなに恐ろしいことも可能であることを本当に震撼したが、フクシマの原発事故の像がテレビで映るたびに、そのことが思い出される。アウシュヴィッツの収容所の建物とメルトダウンし爆発した福島原発とが重なって見えて仕方ない。原発事故の建物を見れば、どうして「取り戻そう」とか言えるのだろうか。


もしも「取り戻すこと」が可能なものがあるとすれば、それは「緑」「植物」などの自然ではないだろうか。アウシュヴィッツ収容所の入り口には青々と葉を付けた大樹があった。殺された人たちもこれを見たのだろうと思うと涙が出てたまらなかったが、福島の人たちは原発事故で住むことができなくなった村々の緑をいま、どういう思いで見ているのだろうか。50年後、村の木々や緑はどうなっているのだろうか。放射能汚染は続いているのだろうか。


人間が生きていくのに一番大事なのは、食べ物を与えてくれる自然というよりは、人間とともに生きていく自然なのではないだろうか。