「セクハラやじ」が意味すること

都議会や国会の委員会でも女性議員への「セク・ハラやじ」があったことが問題になっている。
テレビや新聞などのマスコミやインターネットで盛んに論じられているが、大事なことが抜けているように思う。

この問題は議会における「やじ」の問題ではない。公的な議論の中でも、いかなる人も個人(女性だけでなく男性も)の人権(性や生殖に関する権利)を保証されること、それを侵害してはならないことは、民主主義社会において法令作成遵守の場である議会という公的な場の大前提のはずです。(企業では「コンプライアンスといわれています)。これを認識していない議員は資格がないと言わざるを得ません。男性議員の古い体質の問題とかでは全くありません。


またこのやじを発した人の謝罪の報道が変です。「少子高齢社会の問題解決のために、女性が子どもを産んでほしいとの思い」からであった、とやじを発した人は理由を説明しています。そしてこうした理由があたかも許されるような報道が多くみられます。でもそれでは「セクハラ」ということが全く認識されていないことになります。
 セクハラとは当事者の意図や想いが良かったら許されるものではないのです。その言葉(言動)を「受ける者」が不快や苦痛や不利益、そして権利の侵害を感じるようなことを、セクハラというのです。言葉(やじ)を「発した者」の思いから判断されるのではないのです。
 あのようなやじを受けた女性議員は今後議会の場において質疑などに自己規制がかけられることも予想されたのです。これはまさに個人の権利のみでなく、議員の公的な社会活動への権利侵害なのです。あのやじは、やじを受けた者に「不快」(これは「当惑の笑い」にあらわれているように思います)だけでなく、議員の個人的かつ社会的活動の不利益・権利の侵害をもたらしたといえます(それで女性議員は訴えたのです:ただ議会にはセクハラの訴えできる手続きや場所があったのかどうか知りません)。そのことを報道は問題にしないといけないように思います。議員の個人的資質問題に矮小化したり、古き男性たちのジェンダー観の問題に押し込めて問題収束したりしてはならないのです。