日本の調査捕鯨中止の国際判決を良しとしよう

2014年4月1日(朝日ニュース)「南極海での日本の調査捕鯨国際法に違反するとして、オーストラリアが即時中止を求めて起こした訴訟の判決が31日、オランダの国際司法裁判所(ICJ)であった。ペテル・トムカ裁判所長は、最大1035頭の枠で実施している現在の調査捕鯨(2005年からの第二期)は「科学目的のためとは言えない」として、中止を命じた。判決は日本の調査捕鯨について「殺す以外の調査の可能性を探っていない」「捕獲枠は多すぎる」などと断じた。


このニュースを聞いて、さもありなんとまず思った。スーパーやデパートなどの地下の魚肉売場に行くとクジラ肉が売っている。たしかクジラの販売は禁止されているのにどうしてだろうと思っていた。調査捕鯨は名目上のことで、現実は違っている(調査とは詭弁だ)。魚を食べた方がいいといわれるのに日本人の多くは今日魚よりは動物肉を食べる人の方が多くなっている。そんななかで敢えてクジラ肉を推奨する必要はないだろう。捕鯨は、消費者の立場(需要)よりは売る立場(商売)からなされているように思う。クジラ肉を食べたい人がそんなに多いとは思えないのだ。


かつて私もよくクジラ肉を食べた。親族に南極大陸捕鯨船の船長がいて、お土産にどっさりクジラ肉を送ってきてくれた。クジラ肉が届いた日はごちそうだった。ステーキは言うまでもなく、「おばいけ」の酢味噌あえは私の大好物だった。そうした私もクジラの生態を知ってから、クジラ肉への食欲がなくなり、食べることに抵抗感を持つようになった。いまもなおその味感覚は残っているが、食べようとは思わない。人間は食べることについても動物とは違い、文化的な存在だと思う。食べ物も変わるべきなのだ。


この捕鯨中止の判決を否定しようという人は、クジラ肉を食べることを日本の文化だというのだろうか。ユネスコ無形文化遺産に登録された和食文化にイルカやクジラの肉を食べることも入っていいというのだろうか。イルカ肉やクジラ肉を食べることが、牛肉や豚肉を食べる西洋の食文化と対比されるような日本の食文化とは、もはや思えない。日本人は自然を愛する感性をもって文化をはぐくんできたのなら、人間と同じように子どもに乳をやって育てるクジラにもその感性を向けるべきように思う。「クジラ肉を食べることも日本文化の問題」という語りの背後には、日本の商売第一主義が透けてみえる。食べることには売ることが第一になってはいけないのだ。食べることにも人間性が問われるのだから。


食べることの人間性を大事にしない文化は、食べる人間も大事にしない文化になっていくだろう。