『戦火のレシピ』と『ナチスのキッチン』

斉藤美奈子『戦火のレシピ』岩波書店、2002。10年以上前に出版された本なのだが、今改めて読み返してみたところ、この本は決して単に食のことを書いているというようなものではなく、戦争ということがどういうことか、食のレシピを通して示唆してくれている、今こそ本当に読むべき価値のある本だと思います。この頃、日本という国が「集団的自衛権」や「秘密保護法」(昨日施行)など、国民の意思とは無関係に制定され、「戦争」が「身近に」なってきているように思うからです。


戦争ということがどういうことか、この本は明確に教えてくれている。食のレシピという見えるものを通して戦争がどのように近づいてくるかを教えてくれている。戦争はゆったりと到来するのだ。つまり戦争が始まるなんて思いもしないように、それまでは国民は平穏な日常を過ごしている。しかし国民の日々の暮らしにおいて遠かったその戦争が、上の方で一挙に始められ、そうして国民はあっという間に戦争下に立たされ、日々の食生活も一変するようになる。ほとんどの食糧が配給というように統制されるようになる。とくに批判されるのは、甘いものである。
だが食べることは生きるためだけではない。食べることには楽しみや美味しさがなければならない。それが人間の食べることだからだ。だが、ただ食べることのみ、必要な食べ物獲得を奔走しなければならないような生活を強いられるのが戦争なのだ。戦争とは、人間から食べることの楽しみを奪うことなのだと、この本は教えてくれている。

 
この本を読みながら昨年の朝ドラ「ごちそうさん」をおもいだした。ドラマは戦争中にも美味しい料理と楽しく食べることを求めていきる女性を描いていた。でも親の洋食屋の戦争中の苦労や顛末ももっと描いてほしかった。それに対して同じ戦争期の数人の知的な女性を扱っていた「花子とアン」よりも、多くの庶民の食べることを扱っていたので、珍しく毎朝テレビを見ていたのだった。


この本を通して、日本の戦争中の食生活と、ナチスドイツの戦争中の食生活(『ナチスのキッチン』はそれを教えてくれる本です)とがよく似ていることがよくわかった(とくに「鍋」「家庭菜園」「集団食堂」「主婦の活躍」「節約精神」・・・)。
でもドイツは戦後、かの戦争への深い反省・謝罪を踏まえて、政府の独走を禁止し、原発を廃止し、人種差別のヘイトスピーチを犯罪とするように努力している。
それに対して、日本は経済主義まっしぐらです。いつか経済危機が訪れ、食べられない日が近づくと、再び食糧を求めて他の国を排除・支配するようなことが上から降りてくるのではないか、心配になります。この本はそうしてことにならないように教えてくれています。

「世界が食べられなくなる日」

「世界が食べられなくなる日」という映画を見た。生活クラブが会員向けに特別に上映したものである。

この映画は、「遺伝子組み換え技術」と「原子力原発」という現代の最先端の科学技術が食の世界にもたらしつつある「脅威」を描いたものである。
モンサントなどの多国籍企業がつくっている遺伝子組み換え作物はわたしたちの日々の食料、とくに味噌・豆腐・醤油・サラダ油などの材料(トウモロコシ・大豆・菜種など)にすでに使用されているが、安全性の危険や生態系への影響が心配されている(現在TPP交渉で問題になっている)。原子力の脅威は、チェルノブイリや「フクシマ原発事故」がもたらしている放射能汚染の問題である。二つとも食の世界のみならず、わたしたちのいのちの世界の未来にまで破壊的な影響を及ぼす恐れのあるものである。
しかしこれらの技術を進めようとしている側は、「危険性は科学的に証明されていない」というー証明しようとしないのだといってもいい。
それに対して、これらの技術がもつ危険性を実験検証しようとしているフランスの科学者たちの挑戦を取り上げたのが、この映画である。


映画の内容について、公開されているチラシを引用すると
「2009年、フランスである動物実験が極秘に開始された。それはラットのエサに遺伝子組み換えトウモロコシ、農薬(ラウンドアップ)を、いくつかの組み合わせで混ぜて与えた長期実験だった。実験期間は2年、ラットの寿命に相当する期間である。現在、市場に流通している遺伝子組み換え食品の安全基準は、ラットに遺伝子組み換え作物を3ヵ月間与え続けても問題がないという実験結果をもとにしている。人間の寿命を80歳とすれば、ラットの3ヵ月は人間の10歳に相当する。 分子生物学者、ジル=エリック・セラリーニ教授が行ったこの世界で初めての実験は、2012年9月に専門誌に発表され、フランスをはじめとしてヨーロッパ諸国、そして世界中に大きな波紋を投げかけた。」


しかし遺伝子組み換えなどの科学技術に対して、映画はアグロエコロジーに未来の食の世界に希望を託しているが、それは未知数が多いように思う。

「セクハラやじ」が意味すること

都議会や国会の委員会でも女性議員への「セク・ハラやじ」があったことが問題になっている。
テレビや新聞などのマスコミやインターネットで盛んに論じられているが、大事なことが抜けているように思う。

この問題は議会における「やじ」の問題ではない。公的な議論の中でも、いかなる人も個人(女性だけでなく男性も)の人権(性や生殖に関する権利)を保証されること、それを侵害してはならないことは、民主主義社会において法令作成遵守の場である議会という公的な場の大前提のはずです。(企業では「コンプライアンスといわれています)。これを認識していない議員は資格がないと言わざるを得ません。男性議員の古い体質の問題とかでは全くありません。


またこのやじを発した人の謝罪の報道が変です。「少子高齢社会の問題解決のために、女性が子どもを産んでほしいとの思い」からであった、とやじを発した人は理由を説明しています。そしてこうした理由があたかも許されるような報道が多くみられます。でもそれでは「セクハラ」ということが全く認識されていないことになります。
 セクハラとは当事者の意図や想いが良かったら許されるものではないのです。その言葉(言動)を「受ける者」が不快や苦痛や不利益、そして権利の侵害を感じるようなことを、セクハラというのです。言葉(やじ)を「発した者」の思いから判断されるのではないのです。
 あのようなやじを受けた女性議員は今後議会の場において質疑などに自己規制がかけられることも予想されたのです。これはまさに個人の権利のみでなく、議員の公的な社会活動への権利侵害なのです。あのやじは、やじを受けた者に「不快」(これは「当惑の笑い」にあらわれているように思います)だけでなく、議員の個人的かつ社会的活動の不利益・権利の侵害をもたらしたといえます(それで女性議員は訴えたのです:ただ議会にはセクハラの訴えできる手続きや場所があったのかどうか知りません)。そのことを報道は問題にしないといけないように思います。議員の個人的資質問題に矮小化したり、古き男性たちのジェンダー観の問題に押し込めて問題収束したりしてはならないのです。

日本の調査捕鯨中止の国際判決を良しとしよう

2014年4月1日(朝日ニュース)「南極海での日本の調査捕鯨国際法に違反するとして、オーストラリアが即時中止を求めて起こした訴訟の判決が31日、オランダの国際司法裁判所(ICJ)であった。ペテル・トムカ裁判所長は、最大1035頭の枠で実施している現在の調査捕鯨(2005年からの第二期)は「科学目的のためとは言えない」として、中止を命じた。判決は日本の調査捕鯨について「殺す以外の調査の可能性を探っていない」「捕獲枠は多すぎる」などと断じた。


このニュースを聞いて、さもありなんとまず思った。スーパーやデパートなどの地下の魚肉売場に行くとクジラ肉が売っている。たしかクジラの販売は禁止されているのにどうしてだろうと思っていた。調査捕鯨は名目上のことで、現実は違っている(調査とは詭弁だ)。魚を食べた方がいいといわれるのに日本人の多くは今日魚よりは動物肉を食べる人の方が多くなっている。そんななかで敢えてクジラ肉を推奨する必要はないだろう。捕鯨は、消費者の立場(需要)よりは売る立場(商売)からなされているように思う。クジラ肉を食べたい人がそんなに多いとは思えないのだ。


かつて私もよくクジラ肉を食べた。親族に南極大陸捕鯨船の船長がいて、お土産にどっさりクジラ肉を送ってきてくれた。クジラ肉が届いた日はごちそうだった。ステーキは言うまでもなく、「おばいけ」の酢味噌あえは私の大好物だった。そうした私もクジラの生態を知ってから、クジラ肉への食欲がなくなり、食べることに抵抗感を持つようになった。いまもなおその味感覚は残っているが、食べようとは思わない。人間は食べることについても動物とは違い、文化的な存在だと思う。食べ物も変わるべきなのだ。


この捕鯨中止の判決を否定しようという人は、クジラ肉を食べることを日本の文化だというのだろうか。ユネスコ無形文化遺産に登録された和食文化にイルカやクジラの肉を食べることも入っていいというのだろうか。イルカ肉やクジラ肉を食べることが、牛肉や豚肉を食べる西洋の食文化と対比されるような日本の食文化とは、もはや思えない。日本人は自然を愛する感性をもって文化をはぐくんできたのなら、人間と同じように子どもに乳をやって育てるクジラにもその感性を向けるべきように思う。「クジラ肉を食べることも日本文化の問題」という語りの背後には、日本の商売第一主義が透けてみえる。食べることには売ることが第一になってはいけないのだ。食べることにも人間性が問われるのだから。


食べることの人間性を大事にしない文化は、食べる人間も大事にしない文化になっていくだろう。

文化遺産となった和食を強制されたくない

和食がユネスコ文化遺産に登録されたと昨年末から大騒ぎである。
だがそのことの意味について、知っている人は少ないのではないだろうか。
登録されたのは和食料理ではなく、和食という文化なのである。
しかもコメを基本にして一汁三菜の食生活が推奨されているのだ。

京都ではこれを受けて、来年から、週1回あるパン食をやめて米ごはんにし、牛乳も味噌汁に変えようとの教育委員会が議論しているそうだ。
これでは戦前の給食のあり方を同じではないか。
首相が靖国神社を公式訪問したことが問題となっているが、先の秘密保護法の強行採決に見られるように、日本全体が右傾化しつつあるなか、和食文化の推薦も同じようなにおいがし始めた。
なんとなく和食は日本人の精神を体現しているのだから、食べるべしというような声が少しずつ聞こえてくるからだ。

和食は健康食としてはいいように思うが、食べ物は人や国家によって強制されるものではないからだ。

人が幸せであることを実感できるものは、好きな人がいることと好きな食べ物を食べることではないだろうか。

「もったいない」―ドイツのドキュメンタリー映画

渋谷のミニシアターで「もったいない」というドキュメント映画を見た。

この映画は、現代社会の食品廃棄物・食品ロスの現状及びその問題に挑戦しようとしている人たちを追ったドイツのドキュメンタリーである。環境立国ドイツだからこそできた映画だと思う。


最初にゴミ箱から食料を取り出すドイツの二人の若者が登場する。賞味期限や消費期限の前の食品や買ったばかりの野菜などがそのゴミ箱から取り出される。若者は今夜の夕食の食材だといい、新鮮なものをリュックに詰めて自転車で去っていく。彼らがもっていった「ゴミ」はまったき食材であってもゴミではないのに、捨てられている。「もったいない!」 もちろん二人の若者はホームレスではない。フランスでは賞味期限前のヨーグルトが毎日500〜600トン捨てられているという。日本でも寿司パックは新鮮のものだと売れるので、賞味期限(消費期限前ではない)の2、.3日前にスーパーでは廃棄され、新しいのを並べるという。
―いつもスーパーで買い物をしていると、こんなに山積みされている野菜は、日にちが経つとゴミになるのかしらと思いつつも、自分もその山のなかから新しい食品を選んでいる。


農家の人は嘆く。作ったキュウリやじゃがいもの等の野菜も規格・等級に合わないとスーパーが引き受けないので、畑に放置するしかない。小さい物や大きすぎる物やまがった物は味は変わらないのに売れないのだ。近所の人たちが時々畑に捨てられたじゃがいもを拾いに来るのが、せめてもの救いだと思うという。人間と同じように、食べ物も見た目が優先するのだ。アメリカでは野菜の10〜15%は廃棄されているという。


パンの売れ残りはどうだ。2割がいつも廃棄されている。しかもスーパーでは棚を一杯にしておかないと売れないので、売れるようなパンをいつも満杯にして、「余り」をだすようにしているのだという。しかもそれらの「余り」は有効利用されないで廃棄物となる。BSE問題が起きてから、EUでは食品廃棄物は豚の飼料にはしないそうだ(日本では危険物を除去したうえで食品残さとして飼料としているようだ)。


無駄にしているのは輸入の新鮮食品もそうだ。箱の中の果物が検査で一個でも熟度が過ぎたり腐っていると、どんなに遠くからきだ果物でも開けられることなく箱ごと廃棄される。従業員がそれらのなかから一部取り出して持って帰って利用するのも禁止されているそうだ。そういう従業員は人員整理の対象者となるそうだ。こういうシステムは果物を一生懸命に育てて先進国に送り出した発展途上国の貧しき人たちの生活を一層貧しくさせている。


唯一の救いは、ドイツなどで食品廃棄物をエネルギーに転換しようという動きが紹介されていることだ。食品廃棄物からメタンガスを発火させて原発に代わる電気エネルギーを生みだそうという。ハンブルグ発電所の試みが模索されているという。
また日本の「はまポーク」のように生産者と消費者が直接手を結びあい、無駄をなくす運動もあることだ。そういえば、この頃道の駅などでの購買所もその役割をしているようだ。


この頃の映画には、ときどきこういう社会派の素晴らしいものがあるが、この映画もその一つだろう。

ハンナ・アーレントの映画

『人間の条件』『全体主義の起源』の著書であるハンナ・アーレントを主人公にした映画『ハンア・アーレント』は、『イェルサレムアイヒマン』の執筆をめぐる彼女の苦悩を描いた作品であった。


 彼女はアイヒマン裁判を通して、ナチスの主要な人物であったアイヒマンの「悪の凡庸さ」と、ユダヤ人の指導者たちのナチスへの「協力」(被害者の加害性)について考え公けにしたが、それはユダヤ人たち、友人たち、そしてまた当時のアメリカ人たちからの多くの非難や離反を引き起こした。映画は、その時の彼女の苦悩が真理への思考の強い戦いでもあったことをみごとに描いている。


 「思考しない人間」「命令の中身を考えないで忠実に実行する人間の怖さ」、映画の最後でアーレントが学生たちに語ったこと。またナチス=加害者vsユダヤ人=被害者という二元構図では、ナチズムはみえてこないこと(加害と被害の複層性)、これらのことは、現在にも通じる人間悪の根本問題だ。
 この映画で訴えたこの二つのことは、イスラエルパレスティナ攻撃やアメリカのイラク戦争などをとおして、今日のわたしたちには納得のいくことだが、これがドイツ映画だということも確認しておきたいと思った。今日、ドイツでも、日本にみられるような「自虐史観」からの「解放」ということがいわれているのだろうか。この映画がそうした風潮に同調されることないように願っている。彼女の問題提起が現代悪の弁護になることがないように、映画はそのことをもう少し描いてほしかった。
 

 ハイデガーとの関係(若い頃の不倫関係や戦後の彼女の想い)が皮肉的に描かれているのは興味深かった。またマルキストだった夫との関係は映画では夫婦の恋愛ふうだったが、実際はもっとクールだったのではないかと思う。彼女は女性性を超えた人だったと思うからだ。