食の思想(1)―最近の新聞の「食」の情報氾濫

福島原発事故で食べ物の放射能汚染がおき、食について冷静な報道がなされてきたが、最近、また新聞やテレビでは、食のグルメ情報やレシピばかりが流されるようになってきている。それらのなかでとくに和食についてのニュースばかりなのが気になる。これはおそらく一昨年の和食文化のユネスコ無形文化遺産登録が背景にあり、それを契機として、政府による「食」を通じた国際的経済戦略の一環であるように思う。


問題は、わたしたちの生活の土台を支える食について、和食に標準をあわせたグルメやレシピの情報の氾濫である。とくに気になるのは、新聞である。最近の新聞は、強大な一党を基盤とする右派政権の圧力をおそれてか、社会文化への肯定的な見解ばかり載せるようになっているが、その最良の素材が「食」「和食」であろう。「食」のレシピや情報はみんなが「喜ぶ・楽しい・健康に良い」ことであり、また「和食」について掲載していれば、政府からもネトウヨ(「多数」の少数者)からも、そして政治家たちや(左右の)文化人からも攻撃されることがない、無色のことがらだからである。新聞はまさに「和食のフードファディズム」を推進している。日本ほど食のことばかりが情報を占めている国は世界にみられないように思うのだが、どうだろう。こうした食の情報氾濫は原発問題と一体ではないだろうか。氾濫する食情報は「原発事故やフクシマのことを忘れて美味しいものを食べよう。それが日本の復興だ」というキャンペーンのように思えてならない。


わたしたちにとって、「食べ物」や「食べること」の役割について、再度フクシマが投げかけてくれたことを考えてみるべきだと思う。重要なのは、今日の日本の食の世界には思想という視点が必要だということだ。


なお最近気になった食のニュースをあげておきたい。
 「一日一食:プチ断食か」
毎日三食食べなければならないことはないー毎日三食食べるのは、歴史的にも地域的にも絶対ではない。これがニュースになるのは、豊食・飽食だからである。でもこれについて美容や経費だけで語られるのは、問題である。日本には、一日一食しか満足に食べられない多くの子どもや老人たちがいることの方が問題なのだ。

「食の格差」、子どもの食と貧困

二つの重要なニュースがあった(東京新聞Webニュース4月5日)。その一つは「子どもの食と貧困 初調査へ 健康格差を懸念」

 厚生労働省が子どもの食事、栄養状態と、保護者の収入や家庭環境との関連性について、初の全国調査を実施することが4日、分かった。
 現在日本では、18未満の6人に1人が貧困状態にあるとされ、「子どもの貧困」が社会問題になっている。親の経済的事情が、子どもの体の基盤をつくるのに最も大切な乳幼児期の食にまで影響を与えかねないと懸念が強まっている。非正規雇用の増加などによる「格差社会」が子どもの健康格差にまでつながっているとのこと。
 厚生労働省によると、1985に10.9%だった日本の子どもの貧困率は2012年に16.3%と過去最悪になった。ひとり親世帯は特に深刻で、54.6%に上る。「収入が少なく食費を削らざるを得ない」「働きづめで、食事を作る時間的余裕もない」と親たちの悩みは切実だ。

 新潟県立大の村山伸子教授(公衆栄養学)たちの調査によれば、「朝食の欠食率が高い」「野菜の摂取頻度が低い」「インスタント麺を食べる頻度が高い」といった傾向が貧困糧にみられ、「ふりかけご飯だけ、麺類だけという家庭が多かった」という。こうした子どもたちの食事状況には経済的要因に加え「健康の維持には栄養のある食事が必要との知識が乏しい」とも分析している。
 厚生労働省は、こうした不十分な食生活を送っている子どもたちの家庭の社会的、経済的傾向を分析し、支援策づくりに役立てるという。九月に調査を実施し、来年三月までに結果を公表する予定だ。六歳未満の子どもがいる全国の約三千世帯を対象にすることを想定している。

イモで自給できるという情報の意味

3月18日の大手新聞のニュースによれば、農水省が3月17日に「食料・農業・農村基本計画」で食料自給率目標(カロリーベース)を50%から45%に下げる一方、日本の食料生産力を示す新たな指標を示したという。それによれば、もし食料の輸入が止まっても、国内農業をイモ中心に切り替えれば必要なカロリーを確保できるという。この指標は、いざという時に国産でどれだけの食料を供給できるかを示す「食料自給力」で、戦争などで輸入が止まった場合に、国内で国民1人に対して1日にどれだけのカロリーを提供できるかを示すものだ。1日あたり国民の必要なカロリーを2147キロカロリーとし、それを基準として、4パターン(コメ・イモなど)で試算した結果、日本で自給できるイモ中心だと国民のカロリーが維持できるという。

こんな情報を聞くと、グルメばやりのなかで突然戦争時代にタイムスリップしたかのような感覚に襲われる。いや近頃の右寄り政府は、国民に、食生活レベルで「戦争気分」を準備しようというのだろうか?

料理の社内検定とは

料理に関する検定制度にはさまざまありますが、近頃、食品メーカーが調理技術や知識の「食の社内検定」を採り入れる試みが広がっているそうです。これは決して食企業の販売戦略ということだけではないように思います。これは、どうやら一昨年のユネスコの和食文化無形文化遺産登録と結びついた国の食産業政策の一環でもあるようです。でもこうした検定制度ははたして「食」の世界にふさわしいものなのでしょうか。

 食の検定制度というと、思い出される言葉(「すしポリス」)があります。2006-7年頃に当時の農林水産相松岡利勝が、海外での日本料理の流行を受けて、それが本物の日本料理かどうかを認定するための制度を設定しようとしたのです。こうした動きに対して、アメリカなどのマスコミが「ニセ日本食の取り締り」だと、この言葉で皮肉ったそうです。それでこの企画は中止されましたが、昨今の検定制度にこれと同じような印象をおぼえます。(河上睦子『いま、なぜ食の思想か』より)

 またミシュランの検定に多くの料理人や人たちが必ずしも同意していないように、この検定も一つの商戦としか感じないようにも思います。料理の世界とは、個々人の味覚や嗜好に属している多様な美味への欲求に根ざすものでしょう。


 本当に必要な食の検定とは、「安全性」を問題にするものでしょう。昨日、食中毒で中学生が死亡したとの事件がおきました。こうしたことがおきないように、料理の検定こそが重要であるはずです。

河上睦子『いま、なぜ食の思想か』

河上睦子著『いま、なぜ食の思想か―豊食・飽食・崩食の時代』社会評論社、2015/1

【目次】
 第1章 日本の食(文化)を考える:
      ―和食の無形文化遺産登録をめぐって
   1. 現代日本の食の状況
   2. 和食の無形文化遺産登録を考える
   3. 和食と「イデオロギー
 第2章 ヨーロッパの食(文化)を考える
   第1節 西洋の「食の思想」の特色
   第2節 古代ギリシアの食の哲学
   第3節 キリスト教の食の思想
   第4節 近代ヨーロッパの食の思想
      (1)栄養思想 (2)美食思想
 第3章 ベジタリアニズム:ヨーロッパに貫通する食思想
   第1節 ベジタリアニズムとはなにか
   第2節 トルストイのベジタリアニズムー平和主義
   第3節 ヒトラーのベジタリアニズムーナショナリズム
      (1)ワーグナー(2)ヒトラー
   第4節 宮澤賢治のベジタリアニズム:いのちの思想
   第5節 現代のベジタリアニズム思想
 第4章 食の感性哲学:食べることとはなにか
   第1節 フォイエルバッハの食の哲学
   第2節 食の感性学
   第3節 現代社会の食の感性
 第5章 食の「終焉」をめぐって
   1.食の終焉とは
   ーマクドナルド化する食の世界をめぐって
   2.食の未来をもとめて
  ―「スローフード」をてがかりに
 補論(1) 食文化からみる近代日本の西洋化
       ―福澤諭吉森鷗外の西洋食論
   (2) 「食」をめぐる母たちの「苦しみ」
       ―フクシマとミナマタ

  食べられないような大量の食べ「モノ」を前にして、わたしたちは「食べること」がどういうことなのか、分からなくなってきています。食べ物と人間や自然との関係や、「食べること」をめぐる家族や集団の役割の変化について、考えてみることが必要ではないでしょうか。
  豊食が飽食・崩食でもある現代の食の世界について、こうした原初的な問いを発し、そこから考えてみることが必要なように思います。本書では、とくに食の思想という視角から、そうしたことを考えてみたい。

著者:相模女子大学名誉教授。現放送大学大妻女子大学等非常勤講師。哲学・社会倫理思想。博士(文学)


  

健康な食事認証マーク

政府は来年4月からコンビニやスーパーなどで販売されている弁当やお惣菜に「健康な食事を普及するためのマーク」を付与する制度を導入することを決めたそうです。
厚生労働省が決めた基準を満たした製品に、黄色(主食)、赤色(主菜)、緑色(副菜)などの「マーク」(円で表示)を付けて、栄養バランスのよい食事を推奨するという。

健康な食事のあり方についてはいろんな考え方があろうが、こうしたことが食に関する国の認証制度として掲げられることはどうなのか。食の専門家たちや食にかかわっている団体などからも疑問や批判が出されているようだが、私がいま考えられるだけでも、以下のような問題があるように思う。


?審査基準の問題:付与するための審査機関がなく、販売業者の自己申告によるそうだ。認証の客観性が欠けている。 
?食品の安全性の問題:添加物や農薬などに関する基準は保証されているのか。食の安全性の保証の無い「健康」はない。こちらの方を認証の基準とすべきだと思う。
?1食のカロリー基準の問題:毎日の食事内容は1食の食品で決まるわけではない。食事のバランスとは個別食品で表されるものではない。
?形式主義:主食・主菜・副菜というような考え方は今日の多様な食文化についての理解が欠如している。
?個別食品についての「認証」という考え方は、国による食の「管理主義」であっても、今日の食の自由化・民主化を阻害する面がある。
?何のための認証制度なのか。はたして国民の健康のためなのか、特定の販売業者の利得になる恐れがある。国の食政策の本質から外れているように思う。