料理とは、物がそのあるべき味を持っているときに存在するものである

「料理とは、物がそのあるべき味を持っているときに存在するものである」
これはキュルノンスキが料理とはどういうものかを表した言葉です。ある意味で美食の本質を言い当てた言葉です。でもこの言葉の理解はとてもむつかしいように思います。


一般的には、料理とは食べ物に手を加える(人工的な術を加える、たとえば煮たり焼いたり、他の食べ物と一緒にしたりすること)ですが、この文は、料理を通して、食べ物が待つ味(構成する要素・成分)を壊すことなく、それを生かすこと・実現することが料理の本質なのだといっているといわれます。


問題は「物のあるべき味」の解釈です。「あるべき味をもつ」とは何を意味しているのでしょうか。


多くの美食家たちは、食材の本来の味、それは自然のなかで生育され栽培された(旬の)食べ物の味を意味するといいます。たとえばハウスで育てられた(冬の)トマトではなく、夏の太陽をいっぱい浴びて真っ赤に育ったトマトの味です。


でも今日そうした「自然」のなかで生産された「食べ物」があるのでしょうか。人工肥料のなかった時代のトマト、純粋無農薬トマト、日本では1960年代前に栽培されていたトマトでしょうか。今日のような化学肥料やハウス栽培やグローバル化した食産業時代では、厳密な意味での自然的食材はすでに存在しえません。
だとすれば自然的食材の味というのも記憶の中のトマトの味となるでしょう。でもその場合でも、1960年代以降に生まれた人にとってはそうした味自体の記憶がないわけですから、どういうものが本物のトマトの味か、またそれを実現した料理とはなにかわかりません。


現代社会においては「物のあるべき味」という考え自体が存在しえなくなっているように思います。


それはともかく料理された食べ物の「味」とは、はたして食べ物自体が持っているもの(物質)でしょうか。いや食べる人の方(味覚)に属しているのでしょうか。これは現代の食の哲学の問題でもあるようです。